狼煙か祈りか…….?

自分たちが拘り続けているこの「ジャンル」は、果たして映画なのだろうか。この思いを僕は40年前から抱いている。

そう言えば25年ほど前、京都朝日シネマという街の映画館に、居田伊佐雄という作家の実験映画作品を上映して欲しいと掛け合いにいった事がある。当時僕が関わっていた、個人制作による映像作品を制作・上映するシネマテークでは、よくこの議論が沸騰していたが、なかなか結論が出なかった。僕らの携わっているこの行為が「映画」ならば、映画館で掛けて何の矛盾もないはずだ。だから、一度試しに頼んでみよう、という訳だ。

錦小路にある喫茶店での話し合いは、当初平行線の様相を呈し、2時間、3時間があっと言う間に過ぎていった。とうとう支配人は折れてくれた。「折れて」というよりは消極的理解というニュアンスだったが、何とか個人制作の実験映画が街の映画館のレイトショーで上映される運びとなった。結果は上々で、映画館はついにその重い扉を、個人の実験的な映像表現のために開いたのだ。

以来、全国の多くの映画館が、個人制作の作品上映を引き受ける姿を見せ始めるが、それでも、映倫問題や興行的なハードルから、その後も個人映画は自主上映が主流であり、今日的にもさほど状況は変わっていない。

いったいなぜなのだろう。個人の眼差しが凝視し個人が作り出す世界の豊穣なイメージと問題意識は、その歴史的な浅さに反比例して、他のどの表現分野のそれらと比べても、同等あるいはそれ以上の可能性や豊かさを内包しているというのに、未だに言われなき偏見や蔑視にさらされ続けている。曰く「一般向けではない」「エンターティメントではない」「難解である」「自己満足である」「うるさい」「目がチカチカする」「金にならない」「集客できない」「ヘタ」………アホか。

思うにヒトの想像力の経年的低下は恐ろしく加速していると考えられる。メガヒット映画の◎◎や○○のおかげで、映画はすべてを描ききらなくては評価されなくなった。ぼかしたり思わせぶりな演出は影を潜め、ハッキリクッキリ何もかもがクリアに眼前に現れて、はじめて観客はカタルシスを得る。映画のストーリーは懇切丁寧にくどいほどに饒舌で、小説の行間は読まないし読めない、単一の想像はできても多彩な想像力は発揮できない、そんな観客たちが蔓延しているとしたら、いったい映像の豊かな地平は、どこに向かって何をすれば獲得できるのか。

僕たちの「映画」を映画館に戻してみた事に後悔はない。映画専用の空間という意味では理想的だし決して居間でもデスクトップでもあり得まい真摯な向き合い方が保証されるからだ。

ただ少し居心地は悪い。観客は、映画館やテレビをかなりパブリックな空間と思い込んでいる節があり、公的な枠組みに個人的な「馬の骨」を持ち込んで欲しくないという本能的な嫌悪が垣間みられて仕方ない。とすればどうするかという選択肢はかなり狭まる。つまり僕らの「映画」を上映する僕らの「映画館」を獲得するほかないのだが嗚呼、これは、60年近く前に、高林陽一さんや大林宣彦さん、松本俊夫さんらが、奔走し、実現し、解消させていった過去の繰り返しではないか?

もはや物理的にもう何も望まない。などと言えば誤解を招くが、望む事は単純明快であり簡単な事だ。《個人が意識的に作り出す真摯な映像の多くは、作品として成立する表現であり、アートであり、メッセージをも含むメディアであり、コミュニションの手段でもあり、何といっても個が取り巻く世界に向き合う確かな証左である》という理解に基づいた、偏見や先入観のない認知である。

2013年2月9日土曜日。何を望んだらいいかという自問自答として、京都の地で、個人制作の映像をシャワーのように6時間放出するVideo Partyが画策されている。ビデオと銘打たれているが、8mmや16mmフィルムのオリジナル映写もあるという。この行為は、恐らく2014年に予定されている“Personal Eyes”という映画祭に昇華していく関連プレイベントの第一弾である。文字通り、個人の眼差しというタイトルを掲げるこの映画祭は、「個人映画」とか「実験映画」とか「もう一つの映画」とか「拡張映画」とか「オルタナディウ゛映画」とか「インデペンデント映画」とか、あらゆる愛と侮蔑、愛着と偏見にまみれた映像表現のあり方を、もう一度世間に照射する今世紀初頭の狼煙と取っていただいても結構だし、新自由主義に覆われて、貧富や能力の格差を恣意的に操作され疲弊と混迷を極める人類の、文化的な営みの薄板界に煌めく最後の閃光に向き合う静かな祈りと取っていただいても結構だ。

最後に蛇足。くれぐれも努々誤解のないように!! 劇場公開される多くの商業映画群や、商業映画に「昇格」したくて仕方ない自主映画と呼ばれる一群を敵対矛盾として捉えている訳では決してない。「映画」と呼ばれる緩いく広いレンジの中に、個人による映像表現や「実験映画」と呼ばれる一群を、等価にカテゴライズして欲しいという事だ。

2013年1月 櫻井篤史(映像作家)

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